Kai Kristiansen

Kai Kristiansen(カイ・クリスチャンセン)はコーア・クリントの最後の教え子として合理的で洗練された多くの家具をデザインしました。その多くが生産効率や輸送効率を考慮してデザインされており、デザインに無駄がありません。派手さはありませんが、使い勝手の良い美しいデザインの作品を多く残しています。



1929(0歳):8月8日に大工であり家具職人であるイェンス・クリスチャンセンの子として生まれる。幼いころは植物や花が好きで3人の兄弟と自然に囲まれて過ごす。

1936(7歳):父イェンス・クリスチャンセンが家具工場を作る。

1943~47(14歳):父の大工仕事の見習いとして働き始める。

1947~48(18歳):Haslev(ハスレブ)の大工学校で学ぶ。

1948~49(19歳):Aarhus(オーフス)のキャビネットメーカースクールで学ぶ。オーフスにある建築家の事務所でインターシップを経験する。オフィスマネージャーにインテリアや家具のデザインにおけるスキルが認められ、コペンハーゲンのデンマーク王立芸術アカデミー家具部門に応募するよう勧められる。

1950-51(21歳):コペンハーゲンのデンマーク王立芸術アカデミー家具部門でゲスト学生としてKaare Klint(コーア・クリント)から数学的思考や人間工学について学ぶ。その他Borge Mogensen(ボーエ・モーエンセン)や Rigmor Andersen(リグモア・アンデルセン)からも学ぶ。クリントは1954年に他界したため、クリントから学んだ最後の生徒となった。

1951~1954(22歳):デンマーク北部Thisted(テッド)に戻り、父親の会社Jydsk Traevarefabrikの従業員として働く。
1951(22歳):三角形のモジュラー システムテーブルTreco tableをデザインする。

1954 (25歳):イーディスと結婚し、Braedstrup(ブレイドストラップ)に引っ越す。第一子Lars(ラース)が産まれる。プロとしてのキャリアをスタートさせる。地元の家具メーカーであるTorring Mobelfabrik(トーリング・モーベルファブリック),Feldballes Mobelfabrik(フィールドボール・モーベルファブリック),Aksel Kjersgaard(アクセル・キアスゴー), Schou Andersen Mobelfabrik(スコウ・アンデルセン・モーベルファブリック),Magnus Olesen(マグナス・オルセン)に家具デザインを提供を始める。 Feldballes Mobelfabrikから発表したFMシェルビングユニットシステムが大ヒットする。

1955(26歳):Aarhus(オーフス)に引っ越す。オーフスでは家具業界人、デザイナー、製造業者たちと楽しい時間を過ごした。その中にはニールス・オットー・モラーやカール・ハンセンの息子もいた。
1957(27歳):Chair Model 31、Model 42をデザインする。Model 42はカイ・クリスチャンセンを代表する人気のあるチェアとなる。

1958-75(29歳~):Fritz Hansen(フリッツ・ハンセン),Georg Petersens Mobelfabrik(ジョージ・ペーターソン・モーベルファブリック), Kaagaards Mobelfabrik(カアガード・モーベルファブリック), Christian Jensen Mobelfabrik(クリスチャン・イェンセン・モーベルファブリック),Jason Mobler(ジェイソン・モブラー), Nordisk Andels-Eksport(ノルディスク・アンデルス・イクスポート),Christian Linnebergs Mobelfabrik(クリスチャン・リンネベルク・モーベルファブリック),Mogens Hansen(モーエンス・ハンセン)に家具デザインを提供を始める。

フリッツ・ハンセンでの仕事でパントン・チェアを使用したインテリアの内装の仕事を通してヴェルナーパントンと知り合う。

1965(36歳):地元のデザイン・ネットワークやソーシャル・アクティビティを通じて知り合ったllium Wikkelso(イルム・ヴィッケルソー)とスタジオのシェアを始める。
次男Jesper(イェスパー)が産まれる。

1966-1970(37歳~):デンマーク家具製造業者協会に依頼されヴィッケルソとベラ・センターで毎年開催される家具見本市のインテリアコンセプトを共同で考案する。

1970-1977(41歳~):タイへ度々訪問し、チークやラバーウッド材の輸送効率について研究する。

1978(47歳):Tippahoj(ティッパホイ)に別荘を建築する。自宅スタジオで仕事を始める。

2004(73歳):日本の家具店(宮崎椅子製造)からSchou Andersenにデザインを提供したNo42の復刻製造の依頼を受ける。

2008(77歳):引退をする。Tippahoj(ティッパホイ)の別荘を売却し、Braedstrup(ブレイドストラップ)のアパートでの生活を始める。
2014(83歳):息子のLars(ラース)とJesper(イェスパー)がArchitect Kai Kristiansenに入社する。