Andreas Tuck

ウェグナーがデザインしたテーブルの名作を製造

Andreas Tuck(アンドレアス・ツック)は1950~60年代に活躍したファニチャーファクトリーです。主にハンス・ウェグナーのテーブルを製造しておりました。現在は廃業しています。

1950年代初頭にはフリッツ・ヘニングセンのデザインした家具を製作していました。1951年にウェグナーがデザインした家具を複数のメーカーが垣根を越えてトータルに販売するネットワークである「サレスコ」のメンバーに加わることで転機が訪れます。サレスコはハンス・ウェグナーがデザインする[ダイニングチェア・イージーチェア・ソファ・テーブル・収納家具」をそれぞれのメーカーで製造しておりました。Andreas Tuckは得意としていた「テーブル」を担当することになります。サレスコはデンマーク家具の世界的人気に伴い、国外にも多く輸出がされることとなり大成功を収めます。Andreas TuckはAT310やAT312、AT10やAT40など現在でもヴィンテージ市場で人気の高い数々の名作を世に生み出しました。

1968年にサレスコが解散することになりウェグナーとの関係も解消し、その後急速に勢いを失います。1960年代後半にATはニッセン&ゲールと協力するなど新たな試みをはじめたものの上手くはいかず、1972年に廃業をしてします。現在ライセンスの一部はPPモブラーに移され製造が続けられています。 


Year :1900?-1972

President : Andreas Tuck(アンドレアス・ツック)-Mogens Tuck(モーエンス・ツック)-Jorgen Edmund Jogensen(ヨルゲン・エドムンド・ヨルゲンセン)?-フランク・ペーターセン?-


1900年代:Andreas Tuck(アンドレアス・ツック)により創業する。

1924:Dansk mobelfabrikers Salfsudstilling(デンマーク家具メーカー展示販売会)に出展。これは家具メーカーが販売店や職人に質の高さを見せる展示会であった。この時より Carl Hansen(カール・ハンセン)との協力関係が始まる。

1939年:第二次世界大戦が勃発。家具業界ではドイツ用の安物家具の需要が高まるが、質の高い家具を求めFrits Henningsen(フリッツ・へニングセン)にデザインの提供を求める。

カール・ハンセンと共同作業で家具を生産する。

1946:家具販売店にコンタクトをとる会員誌「モーベルハンラー」に広告の掲載をはじめる。アンドレアス・タックとともにフリッツへニングセンを介して知り合ったEjvind Kold Christensen(アイヴィン・コル・クリステンセン)を営業として雇用する。

1949:コルはコペンハーゲン家具職人ギルド展や一般消費者の動向から、思い切った方向転換が必要であると考えていた。そしてHans J,Wegner(ハンス・ウェグナー)の民主的なデザインと出会い、生産すべき家具の方向性が決まった。それは「デザインと品質から消費者が選ぶ、リーズナブルな価格帯の家具」というものであった。このプロジェクトにはアンドレアス・タックも加わった。ウェグナーは4点のテーブルをアンドレアス・タックにデザインし、カールハンセンにチェアを4点(CH22・CH23・CH25・CH27)とサイドボード(CH304)を1点デザインした。デザインした家具が量産化されたことは、ウェグナーにとって商業的な成功を収めることになった。これまでの営業方法も転換した。今までは家具販売店が営業先であったが消費者に直接営業広告をする手法を取り入れ、一般消費者に向けた宣伝に大きな予算が組まれた。結果としては大成功を収めるが、当時としては斬新な手法で業界団体に背を向ける行為であった。

1950:アメリカのインテリア誌「Interiors Magazine(インテリアーズ・マガジン)」がウェグナーのザチェアを掲載したことで、ウェグナーデザインがアメリカの家具販売店に広く知られることになる。さらにウェグナーがFrederik Lunning-peisen(フレデリック・ルニング賞)を受賞することにより引き合いが増加する。

1951:RY mobler(ロユ・モブラー)、AP Stolen(アンカー・ペーターセン)、GETAMA(ゲタマ)もウェグナーのデザインする量産家具の生産に着手し、Salesco(サレスコ)として共同の営業活動を行う。それぞれのメーカーはサイドボードやソファなど得意分野が分かれていた。これによりインテリアに統一感をもたらすことができ、相乗効果を発揮することができた。

1952:Holger Hansen(ホルガー・ハンセン)とともに渡米し、アクセル・ザッコをパートナーとする。ハリウッドの店でサレスコの家具が展示される。

1953:コルがフリーの販売エージェントとして独立する。

1955:コルがポールケアホルムのデザインした家具を販売するためにEKCを立ち上げる。サレスコはコルとの契約を解約する。Poul Norreklit(ポール・ノアクリット)を新しいエージェントとして雇用する。

1957:サレスコが株式会社化される。

1959:創業者のアンドレアス・ツックが他界する。

1966:ケルン家具見本市でフィンランドや

1964:新工場を設立する。

1965:2代目のモーエンス・ツックが他界する。

1966:ケルン家具見本市でフィンランドやイタリアのデザインが注目され、デンマーク家具が時代遅れのものとなっていく。

1968:サレスコの家具の独占販売権を持ったアメリカ企業であるジョージ・ジェンセンIncがニューヨークに多額の資金を投じてショールームを新設するも、わずか三か月で継続が困難となった。ニューヨークの高額な人件費や家賃を支払うため、デンマーク国内価格の3~4倍の価格設定をしたためともいわれている。この出来事はデンマーク家具の人気の衰えを感じさせた。これによりアメリカでの販売流通経路を失ってしまう。

1972:サレスコの経営不振と新工場の負債により、倒産する。